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串間市 事業広げ住民豊かに [串間市]






 1900(明治33)年ごろ大敷網漁法を導入し「ブリ大尽」と呼ばれた

神戸八郎のいとこ、常次も串間を活気づける大仕事をやってのけました。

 神戸家は1830(天保元)年ごろから、関西への干物、

鮮魚出荷などで利益を上げていたが、使用する帆船は波の影響を受けやすく、

転覆もありました。事故を案じた常次は1907(明治40)年、

大阪商船と交渉しました。同社が所有する機械船での出荷を実現させ、

安全航海、大量輸送が可能となりました。串間市福島港や

鹿児島県内之浦港(現肝付町)から魚のほか、

材木、米、農産物などを運びました。

 同じくいとこの四郎は肝付町で会社を設立し、工場経営に乗り出します。

「当時の魚の保存法は天日干し、もしくは塩漬け。

大漁になると処理しきれず、肥料になっていた。

より多くの魚を商品にしようと、四郎は氷詰めでの出荷を考えた」と

郷土歴史家の田中靖基さん(78)は話していました。

四郎は工場は電力が必要と考え、

1923(大正12)年ごろに発電所を建設し、続いて製材、製氷工場を建設しました。

氷詰めし、おがくずも入れて運んだ魚、干物は新鮮で、高値で取引されました。

 神戸家は事業家以外でも偉人を輩出しました。

児童福祉に力を注いだのが神戸タマさんです。

1927(昭和2)年、串間の浜辺で子ども5人が溺死しました。

親が働いている間、子どもの面倒を見る施設が必要と考えたタマは翌年、

本県初の常設託児所を今町に開設しました。

現在りんぽかん保育園となっています。

 ほかに有明小を建設するなど、海運などで蓄えた財で地域貢献に励んでいた神戸家を

世界恐慌が襲います。四郎は1931(昭和5)年、

すべての工場を閉鎖し、宮崎市へ移住しました。

その後神戸家は医師、政治家、文学者などとして活躍しました。

四郎の次男驥三郎の妻美和は医師でした。

美和は同市で病院を開院し、長男、次男も医師となりました。

タレント神戸蘭子さんのルーツも串間で、

父直孝さん(66)が同市で「かんべ歯科」を営んでいます。

 「ブリ大尽」八郎の長男俊一は41年、北方村と福島町が合併した新福島町の

初代町長となり、町民1万9200人をけん引しました。

次男雄一は現代詩の先駆者となり、小説家井鱒二、太宰治らと親交を深めました。

帰郷後は有明小、宮崎工高、飫肥小、飫肥中の校歌を作詞するなど、

本県の文化振興に寄与しました。

 「江戸時代初期に伊勢(現三重県)から来た神戸家が脈々と子孫を残し、

繁栄したのは分家制度を継承してきたから」と田中さんは話していました。

神戸家は本家、梨園、酒屋、かくか(くにがまえの中にカ)、

まるかん(○の中に神)の5つの屋号に分かれました。

例えば酒屋に継ぐものがいなかった場合、

ほかの家から継子を迎え入れるという仕組みです。資金の相互援助もあり、

神戸家が途絶えないよう親類で協力し合いました。

 時代のニーズに対応した新しいアイデアで事業を拡大した神戸家は地域に

仕事をもたらし、多くの住民の生活を豊かにしました。

タマの近縁で、今町に住む神戸仁さん(80)は

「神戸家は商売だけでなく、教育にも力を注いだ。串間のために

尽力した祖先をとても誇りに思う」と話していました。

(宮崎日日新聞 9月24日 抜粋)






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