SSブログ

宮崎市 「県内初の職業教育校」 110周年 [宮崎市]






宮崎市・宮崎工業校(竹下弘一郎校長、535人)が

創立110周年を迎えた。

県内初の職業教育学校として産声を上げ、

1世紀以上にわたって本県の工業を

リードする人材を輩出してきた。


同校の歴史をひもとき、

今を伝える。(題字は川越珠希、

挿絵は魚見侑加=いずれもインテリア科2年)

産業革命により、技術を持つ人材の育成が

国の急務となっていた1905(明治38)年。


宮崎工業高は宮崎郡立職業学校や群役場や

郡会議事堂が隣接する宮崎尋常高等学小学校(現・

宮崎小)の一角に開校した。


男子44人、女子43人が入学。


男子部には木竹、漆工科、女子部には掲げられた

表札は今の校長室入り口に飾られている。


女子部は18(大正7)年に

宮崎郡立技芸女子高として分離。

こもとき、校名が県立工業高校へ変わった。

校舎が今の天満町に移ったのは(昭和15)年。


先に独立した県立宮崎女子高等技芸と向かい合う

形になった。


39年に新設された応用化学科の第1期生として

入学した黒木義幸(90)=同市内海=は、

2年生から新校舎で勉学に励んだ。


だがこの年、第2次対戦が始まり

教育現場も戦争一色になった。


「学校生活は銃を持っての軍事訓練が中心で、

心身ともに厳しかった。

だけど、そんな時に新しい校舎で勉強でき、

今までなかった体育館で剣道ができたことは

格段にうれしかった」と振り返る。


48年、学制改革により、

宮崎女子高等技芸学校の流れをくむ

県立第二宮崎高等女学校と、

県立宮崎農業高校と統合。


3校供合により、県立宮崎大淀高が誕生する。


普通、工業、農業、家庭、定時制の

5課程で多岐にわたる分野での人材育成が始まった。


だが、宮崎大淀高も長く続かない。


59年には農業課程が県立宮崎農業学高として独立。


62年には、普通と家庭課程が県立宮崎大淀第二高

(現在の宮崎商高)として分離する。

現在の校名に落ち着いたのは65年のことだった。


(宮崎日日新聞 11月11日 抜粋)








nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました
Copyright © 宮崎の気になる新聞記事特集! All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます
イオンの株主優待

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。